「生まれてからずっと伊吹山の麓で暮らしているからね。先輩方がずっと伊吹山を守ってきた姿を見てきて、今はその役割を自分たちが果たしているだけです」そう語るのは、髙橋滝治郎さん。伊吹山が海底から隆起したのが1 億5000 年前。人類よりも遥かに長い歴史を持つ伊吹山。現在、温暖化と共に危機に瀕している希少な植物たちを守りお世話をされている滝治郎さんは、年に70回は山へ登るという。そんな山を守る滝治郎さんにお話を聞かせてもらった。
伊吹山を守ることは水を守ること。米原市では伊吹山など山に降った雪や雨が流れ出して田んぼに注がれ、米が作られている。栄養分に富んだ清らかな水が美味しい米原の米の秘訣。滋賀の田んぼは琵琶湖の水をポンプで組み上げている所も多い。その琵琶湖に注がれる水として伊吹山の伏流水も欠かせないものとなっている。伊吹山の水は琵琶湖の水を利用している全ての人間にとって命の源流と言っても良いだろう。
2023年7月12日。麓では雹が降る大荒れの天気だった。その時、滝治郎さんたちは登山道の補修のために8合目付近におられたそうだ。山に慣れている滝治郎さんでも恐怖を感じるほどの雷雨に見舞われ、山小屋に避難しようとした矢先、斜面の至る所で土石流が起こった。その様子を仲間の一人が動画撮影し、この模様がテレビのニュースで放送された。そのことが奇しくも深刻な植生の衰退を認識するきっかけとなり、『伊吹山植生復元プロジェクト』が立ち上がった。「ずっと言い続けてきたんです。温暖化で鹿が越冬し、希少な植物をみんな食べてしまう。そのことが原因で山の土が剥き出しになり、雨が降ると水が川のように流れる。近年、近くの川も雨が降ると土で濁っているんです。ですが、手遅れと諦めずできる限りのことはやって行きたい。」と、滝治郎さんは静かに語った。
現在『ユウスゲと貴重植物を守り育てる会』として、多様な植物を鹿から守る活動をされている他、『NPO法人霊峰伊吹山の会』として、登山道の整備をされている。また、伊吹山で見られる植物を紹介した「伊吹山花だより」を2012年から花のシーズンには毎月発行され、山を訪れる人の花のガイドとして喜ばれている。また近隣の小中学校で伊吹山について話をしたり、5・6年生と一緒に頂上まで登山をしたり、精力的に活動されている。子どもたちが励まし合いながら登り切った姿は、達成感と自信にあふれているという。
「魅力はなんと言っても、自然が豊かで四季折々こんなに花が咲き乱れる山は他にないこと、山からの眺望が素晴らしいことです」と滝治郎さん。伊吹山は日本海の若狭湾と太平洋の伊勢湾を結ぶ風の通り道の壁になるため、独特の気候が生まれ霧が発生する。その霧の恩恵もあって約1300種もの様々な植物や豊かなお花畑が育つという。霧が多く湿気を含んだ山頂草原では多くの種類のカタツムリやそれを餌にするヒメボタルが生息する。それから生態系の王者イヌワシが生息しており、これは生態系のピラミッドが成り立っていることを表している。「伊吹山は、ほかに類を見ない奇跡の条件が整った山であり、人類と地球にとって未来へ繋ぐべき至宝だ」と滝治郎さんはいう。
水、眺望、動植物、山菜、薬草・・・長い歴史の中で伊吹山が人に与えてくれた恩恵は数知れない。小説家であり登山家の深田久弥が山の品格、歴史、個性に優れているとして日本の百名山に選定し、植物学者の牧野富太郎も何度も伊吹山に訪れたという。平安時代に朝廷に献上された薬草は伊吹山のものが最多とされ、織田信長が薬草園を開いたとも言われている。近年ではハーブ研究家のベニシアさんも晩年伊吹山を愛されていたそうだ。「この伊吹山を子どもたちに少しでも健全な形で残していきたい。次の世代に誇りを持てる山を残してあげたい。伊吹山は1377mと家族でゆっくり登れる山。希少植物を観察しながら楽しんで登っていただきたい」と語ってくれた。